アナログのすゝめ
「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、
泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」
(詩編126編5−6節)
園長 塚本 吉興
最近飛行機に乗る機会がありました。大阪までの短いフライトでしたが(新幹線の方が便利な距離でも、あえて飛行機を使うのがマイラー)、ちょっと新し目の機体で、各座席に大きなモニターがついていました。そこで、ニュースやアニメなど自分の好きな番組を見ることができます。もうそれは当たり前の光景ですが、昔の飛行機の中では、映画やニュースは、前方の大きなスクリーンに投影されるもので、自分のタイミングで始めることはできませんから、途中で居眠りなんかしている間に終わってしまうなんてことがありました。しかしそこに、スクリーンが遠くても、イヤホンの音が悪くても、映画館のように、機内で一緒に時間を共有するような変な一体感があったものです。
好きな時間に、好きな動画を。お茶の間だけでなく、テレビという言葉も死語になりつつある今、わたしたちの社会は大勢の人が集っている場所であっても、孤立化が進んでいます。地下鉄に乗ると、マナーもあって、互いに話をしている人は皆無、本や新聞を読んでいる人もあまりおらず、たいていの人がスマホの画面を眺めています。それだけスマホやネットの世界が私たちの生活と分かち難く繋がっているということでもありますが、時々、もうスマホは私たちの脳の一部なのではないか、これなしでは生きていけないのではないか、と不安に思うことがあります。ファミレスに行けばタブレットで注文&ロボットが配膳、ネットでお買い物したものは置き配で配達員の顔を見ることもなく、自動運転タクシーも実用化されそう・・・便利にはなるけれども、温かみはない。
一方、ようはの子どもたちは、今日もアナログ〜に遊んでいます。お山でダンゴムシを捕まえたり、葉っぱやムクロジの実を拾い集めたり、空き箱を思い思いの形に切って、貼って、繋げて、好きなものを作ってみたり、絵筆だけでなく手も使って絵の具で絵を描いてみたり、はだしで運動場の土を蹴って走り回ったり・・・幼稚園が始められた時から変わらない子どもたちの光景があります。子どもたちも大人と同じように、タブレットにも、スマホにも、YouTubeにも興味があります。でも、デジタルを一旦脇に置いて、アナログに遊ぶことは子どもの成長に大事なんだろうなぁ、と思うのです。心配しなくても子どもたちは、タブレットやスマホを教えなくても親より上手に使えるようになります。
聖書の世界に涙を流しながら種を蒔く人が出てきます。この人はなぜ泣いているのでしょうか。収穫の時に喜びの歌をうたいながら刈り取っています。豊作を見て、神の恵みを想っているのでしょうか。現代には種を蒔く機械、刈り取る機械もあります。機械は涙を流すことも、喜びの歌をうたうこともありません。それは人間だからこそです。子育ては種まきに例えられます。毎日、いろんな種を蒔いても、中々、芽が出ません。泣きながらということもあるかも知れません。でも、神さまがいつの日か豊かな実りを与えてくださる。その喜びの日を信じて、今日も種を蒔くのです。