走る走るオレたち
園長 塚本 吉興
「そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、
(ルカによる福音書15章20節)
父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」
運動会の花形は、何と言ってもかけっこです。ちゅうりっぷ組は園庭を真っすぐに往復、ばら組はトラックを一周、そして、ゆり組はトラックでバトンを使ってリレーを行います。走るのが大好きな子も、ちょっぴり苦手な子も懸命に走ります。ニコニコ笑顔で蝶が舞うように走る子もいれば、絶対に負けないという気合が伝わってくるような表情で走る子もいます。でも、どの子も目標を目指して走っており、その姿には凛々しさがあります。ギリシャのオリンピアで始まった最初のオリンピックでは、1スタディオン(190m)を走る徒競走だけが唯一の競技であったそうです。それだけ人間にとって、走るということが運動の基本のキであることが分かります。
ただ大人になると段々走るのが億劫になってきます。昔、「あぶない刑事」の再放送を見ていたことがあります。タカとユージが、普段はクールなのに、いざ目の前に犯人が現れると、スーツに革靴で拳銃を片手に、颯爽と走る姿が定番となっていました。また、中学生の頃に流行った歌に爆風スランプの「Runner」という歌がありました。歌詞は、「走る走る俺たち、流れる汗もそのままに、いつかたどり着いたら、君に打ち明けられるだろう。」ミュージックビデオには必死に走る高校生とスーツ姿の若者。人が無心に走る姿は、無茶苦茶かっこ良いものです。
聖書の中には走る父親が出てきます。イエスさまが語られた「放蕩息子のたとえ話」の中で、自分が罪を犯したことを悔い改めた息子が、父親の元に帰るためにとぼとぼと道を歩いて行きます。その服はボロボロ、裸足で、父親の遺産の内、自分の分け前をもらって出て行った時の見る影もありません。しかし、その息子が父親の赦しを乞うために戻って来た時、まだ遠くにいるうちから父親は息子を見つけて、走り寄って首を抱き、接吻したのです。父親は息子が戻るのを待っていて、その姿を見つけるとたまらずに走り寄ったのです。自分と家を捨てて行った息子ですが、父親にとっては大切な我が子であったからです。むさくるしい恰好の息子に抱き着く父親、その姿はかっこ悪くても、とても深く、尊い神の愛を表しています。
子どもたちが小さかった時、よく「あの電柱までどっちが先に着くか?」などと言って、競争しました。子どもが疲れて来た時など、抱っこをしないで済むようにという意味合いもありましたが、手加減ならぬ足加減をしてギリギリ勝ったり、負けたりの繰り返しでした。しかし、そんな子どもたちもすぐに大きくなり、もはや私が全速力で走っても追いつけません。走り寄ること、一緒に走ること。カッコよくても悪くても、走ることで、子への親の愛情を表していきたいものですね。