「イエスさまと手をつないで」
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、
わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。
わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」
(ヨハネによる福音書15章5節)
園長 塚本 吉興
「あ、髪切ったでしょう?」髪をカットしに行った次の日、少しはにかんだ表情で登園して来る子どもに先生が声をかけます。「うわぁ~似合ってるぅ。かわいい~!」褒められて子どもも嬉しそうです。気づいてもらえるって、とっても嬉しいことです。見てもらっている、気にかけてもらっているということは愛されているということだからです。幼稚園も春休みの間に園庭の木をだいぶカットしてもらいました。ちょっとスカスカ?というほど木を切ってもらったのです。でも、うっそうとして森のようであったところに日の光が届くようになり、風の通りも良くなって、カラスが巣を作ったりすることもなくなってすっきりしました。木は適度に枝を落とすことによって、よりバランスよく成長できるのです。
わたしたちの幼稚園は、キリスト教保育を行っています。キリスト教保育とは、少し堅い定義を見ると「子ども一人ひとりが、神によっていのちを与えられた者として、イエス・キリストを通して示される神の愛と恵みのもとで育てられ、今の時を喜びと感謝をもって生き、そのことによって生涯にわたる生き方の基礎を培い、共に生きる社会と世界をつくる自律的な人間として育つために、保育者がイエス・キリストとの交わりに支えられて共に行う意図的、継続的、反省的な働きである。」とあります。すこし頭がクラクラするような長い文章ですが、ねらいが4つ併記されています。この「園だより」で一つずつ見ていきます。まず一つ目は「子どもが、大切なひとりとして自分自身が受け入れられていることを感じ取り、自分を喜びと感謝をもって受け入れるようになる」こと。日本の若者の自己肯定感の低さということが、時々報道されたりしますが、子どもが「自分は自分のままで受け入れられているんだ。」と知ることは本当に大切です。誰にも「こうあるべき自分」というプレッシャーや、「こうありたい自分」という理想があります。また、それでもそうなれないという挫折も…。でも、イエスさまは、「あなたはあなたのままでいい」と丸ごと受け止めてくださっている。そのことを子どもも保育者も分かち合い、ありのままで受け入れられていることを一緒に喜ぶのです。 聖書はイエスさまの言葉です。同じ箇所に「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」とも記されています。神さまが農夫として、いらない枝、実を結ばない枝を切られます。そうすることによって、より豊かな実りが与えられるのです。私たちの心にある「どうせ私なんて…」という理想に生きられないことを悔いる思いからは何も生まれて来ません。そんな枝は神さまに切り落としていただくのです。そして、神さまに自分がそのままで受け入れられていることを知って、子どものことも、そのままで受け入れていきたい。「認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる。」ドロシー・ロー・ノルトさんの『子は親の鏡』の一節です。さあ、新しい幼稚園の一年が始まります!