2026.02.03 | おしらせ今月の園だより

2月園だより

「おもしろいこと」

「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」

(創世記1章27節)

園長 塚本 吉興

いつもように幼稚園に自転車を走らせていると、横断歩道を渡っている二人の大学生の会話が聞こえてきました。「おもんない。普通におもんない。何か、当たり前におもんない。」その言葉しか聞こえなかったので、何について話をしていたのかは分かりません。大学の授業についてだったのか、昨晩のデートについてだったのか、最近行ったお笑いライブについてだったのか…。でも、授業や教授のことだとしたら、まあ、大学の授業が面白くないのは、学生の方にも責任があるのでは、などと「大人」なことを考えていました。(サンデル教授の白熱教室が熱いのは、教授だけでなく、学生も身を乗り出して授業に関わっているからです。まあ、そうやって学生を巻き込み、熱くするのが先生の力量だと言ってしまえば、それはそうなのですが…。)けれども、そもそも授業とはおもしろいものなのでしょうか。おもしろい先生というのは、良い先生なのでしょうか。そもそも、おもしろいとは何?

最近、参加した幼稚園や保育園の研修会の講師は、関西の人でした。私も時々するのですが、そこで関西弁を使う必要はありませんやん、という場面で、何でか知らんけど、関西弁を使わはる人がいてますが、まさに、この講師の弁護士はそんな人でおました。その意味ではキャラの立った、おもしろい人でした。特に扱っていた内容が、法的なことも絡んでくるような小難しい話でもあったので、余計、マイク片手に講演会場を歩き回って、「このことについては、どうでしょうか?」と誰彼となく答えさせるスタイルで、いつ当てられるだろうかという緊張感もあって、寝ている人は皆無、「おもろい」と学びが上手く組み合わさった講演だと思いました。でも、関西弁もやり過ぎると、関西人からすれば、「ちょっといやらしい。普段、そんなしゃべり方してへんやん。」となったりもするので、おもしろい=良いとならないこともあります。大学の授業だって、研修会の講演だって、必ずしも「おもしろい」必要はない。わたしたちは、スマホの普及と同時に、「おもしろくない」ものはすぐに右にスワイプして、切り捨てるような思考回路になっていますが、おもしろくない=良くない、ではないのだし、自分がそのことにどう向き合うかによって、「おもしろくない」ものを、「おもしろく」できるのではないでしょうか。

アメリカの教会で時々聞くジョークに「神にユーモアのセンスがあるかって?それは、あなた、自分の顔を鏡で見てごらんよ。」というものがありますが、神は人を想像力のある存在として、ユーモアのセンスを持つものとして造られました。それは人間が「おもしろい」ものを作り出すことができるためであり、「おもしろい」ことを言ったり、したりすることができるためです。子どもたちは、「おもしろい」の達人です。遊びは、おもしろいことの連続です。大人から見れば、お菓子や化粧品の箱をテープでつなぎ合わせただけに過ぎないものが、猫だったり、恐竜だったり、飛行機だったりします。大人から見れば、ちょっとした段差に過ぎないものが断崖絶壁になり、紙を丸めたバットで打った新聞紙のボールはドジャーススタジアムの満員の観衆に飛び込むホームランになります。おもしろいというのは、その人の感性です。同じ漫才を聞いても笑い転げている人もいれば、ムスッと顔をしかめている人もいます。おもしろいことを見つける天才の子どもたちにならって、わたしたちも、身の回りにあるたくさんのおもしろいものを一緒に見つけていきたいものです。たとえ、それが園に行く途中の道端の小石であったとしても。

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